制御社会の先にあるもの
〇前書き
先週、岡山芸術交流2019に行ってきました↓↓
https://www.okayamaartsummit.jp/2019/
瀬戸内国際芸術祭、六甲ミーツ・アートに続き、今年に入って3つめの芸術祭です。
岡山芸術交流の中で気になる作品があり、そこから思うことを書いていこうと思います。
気になった作品は岡山県天神山文化プラザに展示されていた
Mika Tajimaのフォーカス・タッチ(からだ) という作品です。
作品自体は、壁に開いた複数個の穴から弱いエアが噴出されるというものです。
この作品はエアの流れ・強さを制御する事によって成り立っています。
作品と同様に、私達の生活というのは、様々なもの・現象を制御する事によって成り立ってはいないでしょか?
工場に行けば品質の高い製品を作るためにエア・電気・水・材料・方法などを制御します。私生活の中でも、顔を洗う、通勤する、スマホを見る、音楽を聞くといった簡単な動きのなかに様々なものが制御されています。私たち人間は豊かな生活を手に入れるために様々なもの・現象を制御する力を入れて活用しています。
制御するだけでなく、生きていく為にも無意識のうちに自分自身を制御しているのではないでしょうか?
そして、いつかは自然現象を自分自身を、他人を完璧に制御することが可能になるのではないでしょか?
そのような社会の中に自然というものは存在するのでしょうか?
また、それは幸せな社会と言えるでしょうか?
私たちの生活の中に隠れる「制御」という事について考えていこうと思います。
〇制御させれいない状態は存在するのか?
前書きにも書いたように私達の生活というのは、様々なものを制御しています。
では、自分自身はどうでしょか?
まず、「身体」です。
完璧に自由に自分自身を動かせる人はいないのではないでしょうか?
身体を動かすにしても、意識的に制御して動かしているわけではありません。勝手に関節や筋肉が動いてくれて、歩く、物を持つなどの動作が出来ています。背骨の1つだけを意識的に動かすことはできません。
脳も同じで10%程度しか使用されていないという説もあります。
生命活動を行う自分自身の身体でも制御されていない状態なのです。
では、「意思」はどうでしょうか?
自分の食べたい物を食べ、行きたい場所に行き、言いたい事を言う
自分の意思に沿って生きていく。それは本当に自分自身の意思なのでしょうか?
仮に行動の前段階で思考というプロセスがなければ、それは自分自身の意思つまり「自由意志」といってもいいでしょう。つまり、完璧な自由の状態です。
でも、私たちのは何かの行動を起こす前にまず、考えてから行動します。
そして、その考えの結論に至るまでに様々な情報を得て取捨選択しています。
素敵な鞄を購入したのは、前日に何かの広告を見たからかもしれません。
ハンバーグを食べにいったのは、友人との話の影響かもしれません。
様々な情報の影響を受けて、無意識にその選択をするように仕向けられているのかもしれません。
そう思うと、インプット情報なしで何かの意思決定をしたというのは断言するのは難しくなってきます。
自分自身の身体・意思すらも何かの制御を受けている状態です。
制御を受けていない完璧な自由は本当に存在するのでしょうか?
〇制御化された社会でイノベーションは起きるのか?
仮に完璧にシグニファイア化されたデザインが生活中を囲んで、それを世界中の人達が使用する世界であった場合。
1つのデザインに対して1つの行動しか思い浮かばない状態
1つのデザインに1つのアフォーダンスしか取れないような状態です。
自然科学や社会科学は想定されていた用途と異なる使用をした際に、意外な発見や反応が起きて進歩つまりイノベーションを起こしていきました。
ノイズのあるデザインであるからこそ、誤解や勘違いによって多様性が生まれ、そこに新たな価値や意味が発生するのではないかと考えています。
制御化された世界では多様性が担保されないために、イノベーションが起きないと思います。
ノイズのある状態こそが多様性を生むのだと考えています。
〇まとめ
今回は「制御」に対して色々と考えてみました。
個人的に「制御されている」と感じる条件は
定められた自由という範囲に対して、侵入、攻撃、そして範囲を強制的に小さくされてた場合だと思います。
科学技術が発達するとより高度に物、現象、人を制御出来るようになると思います。
言動が制御を受けてないようにも、現在から一歩引いた自分を常に持ち続けることが大切であると考えています。