本を読むこと

僕には「本を読む」というブームが人生で3回あったと思う。

今ちょうど3回目のブームに入っていて、今までの中で一番長いので、今までの経緯となぜ本を読むかをなんとなく語り直します。

 

〇1回目

9~10歳。伝記とか動物の感動話とかをメインで読んでいたのを何となく覚えている。

 

〇2回目

18~19歳。東野圭吾米澤穂信とかの推理小説をメインで読んでいた。本を読むことが旅行しているようで楽しかった。

 

〇3回目

22~現在。小説は読まなくなって、新書とかをメインで読み始めた。また、その中で「社会学」「心理学」「詩」を読み始めた。

新書を読み始めた経緯はあるけど、途中までは「弱い自分を学問を盾にして守るため」だったと思う。なぜ社会全体や個人が、こう考えるのか?自分が嫌な気分をした時に学問というフィルターを通すことで、納得する手段として、現実と無理やり折り合いをつけるために知識、思考の転換期だっと思う。

 

また、「詩」を読み始めたのも自分にとっては大きな一歩でした。

まず、小説を「読まなくなった」のではなくて、「読めなくなった」状態に陥っていることでした。理由として考えられるのは、読書ブームの2回目と3回目の間に学術論文を読むのに慣れてしまった自分がいることでした。学術論文は一つの意味とでしか捉えられないクリティカル・ライティングという論理的な書き方をしています。反対に小説などは、結論(オチ)までの前段階が非常に長く、複数の捉え方ができる書き方をするため、論文形式の書き方に慣れている自分にとっては非常に読むのに苦労する読み物も変化していました。

では、なぜ「詩」を読むようになったのか?

一番最初に読んだ?詩は「中原中也-春日狂言」だった。Youtubeをさまよっていたら、たまたま(https://www.youtube.com/watch?v=V-H_L_I-T6M)に辿りついた。

冒頭2文が衝撃的過ぎて、そこから中原中也の全詩集を買って読んでいました。

詩集を読んでいくなかで、「中原中也賞」があることを知り、「最果タヒ-文庫の詩」に辿りついた。

最果タヒ-死んでしまう系のぼくらに」のあとがきを読んで

言葉はもっと自由でよくて、無理やりカテゴライズ化しなくても、思ったことを奇麗な言葉にしなくても、情報が抜け落ちていてもいいのだと思うようになった。

情報化社会の中でみんなに伝わるように、わかりやすい言葉で、簡潔にかつ情報量を凝縮した言葉を選択させるような環境で私たちは生きていて、だからこそ意味のない言葉を言語化して残すことに意味があるのではないのかと思うようになった。

ある意味感性が豊になったと思います。

 

 

今のブームは、自分の視野を広げていき、しっかりと自分の意見を持てるような練習をしているのかなと思います。

 

今後は、本の感想とかを投稿しょうと思います。