「消費」すること

「消費」について考えることにした理由

先週、和歌山旅行に行きました。その際にアドベンチャーワールドでパンダを見たんですけど、そこにはパンダを必死に撮影する人達がいて、その際に「逆パンダ状態だな」と思いました。パンダを見ているようで、パンダに見られている、そして何かを「消費」しているのではないかと思ったので、考える事にしました。私たちの社会は「消費」で溢れています。

「消費」とは何なのか?「消費する」とは何なのか?何となく書いていきます。

 

「物的消費」と「精神的消費」

消費は大きく2つに分かれると考えています。

1つ目は金、時間などの体感できて「減っていく」という感覚が分かる消費。

2つ目は心、愛などの体感するのが難しく「減っていく」という感覚がわかりずらい消費。

 

どちらの消費も程々がよい

「物的消費」と「精神的消費」は相関関係があると思います。

「物的消費」が過剰になると物による精神の安定の割合が増えるため、自分の内面と向き合うのを避けてしまい、自分の矜持を捨てることになると思います。自分の矜持を貫くのではなく、社会の変化に表面上対応できているだけかもしれません。

「精神的消費」が過剰になると満たされることがない、自分でも気づかない何か埋めようとして物による埋め合わせをしようとする。人間は貪欲で好奇心旺盛なので、現状に満足することがなく、満たされるという基準が上がっていくものなので仕方ないのかもしれません。

どちらかの消費が過剰になると、もう一方の消費も過剰になるので、過剰になり過ぎないようにメタ認知して自分でコントロールできた方がいいのかもしれません。

 

 

「消費」は悪いこと?

消費は単なるインプットだけでアウトプットがない状態のことであると考えています。物的であれ精神的であれ、自分が感じた事(インプット)を誰かに伝えること(アウトプット)で消費から「投資」に昇華されると思います。自分の内面を言葉であれ、ジェスチャー、その他 最も自分が伝えやすい媒体で伝えることで外部からのリアクションがあり自分自身をより一層、客観視することが可能であると思うからです。自分自身を見つめ直し自分で考え行動することで、自分自身を守ることができると思います。

 

次世代の消費

日本の1世代前の消費は、全員とレベルを合わせるための消費であったとます。戦後、辛さ・貧困を共感した日本では全員で生活のレベルを上げるために、みんなが持っている物を買うことで、精神的な支えをしていたのだと思います。それが、日本が誇る同調圧力を加速させてたのではないかと考えています。

 

現代の日本の消費は、他人と差別化するための消費であると思います。物が飽和している状態で、同じような製品が安い価格で手に入る現代では、自己性を確保するために人とは違うもの、高価な物を身に着けることで他人との差異化を図っています。記号的消費であるとも言えます。ブランドというものがヒットしている理由もこの一つだと言えます。

 

次の消費は、自分自身に合わせた消費になると考えています。今までは自分に合ったサービス・物を買おうとすると非常に費用が必要でした。パーソナルトレーナーオートクチュールの服がそうでしょう。しかし、今後より一層、物や情報の流れが多様化・加速化するため、今までとは比にならない低費用で自分にフィットしたサービスが受けられるようになると思います。そのサービスを受けるためには、自分自身が何を必要とし足りていないのかを自覚する必要があります。今までは、目に見える物にか消費対象ではなかったのに、今後は目で見ることができない物の消費対象となるでしょう。それを感知するということは、ある意味「消費」ではなく「投資」ではないかと考えています。物が溢れかえっている現代であるからこそ、自分自身に目を向けて次世代にしっかり投資できる状態を作り上げることが大切であると感じています。