「分かち合う」とは何か?

「人が分かり合うことなんて無理だから、分かち合うことが大切」

これは僕の人生の中で大切にしている指針です。

今回は、「分かち合う」という事に対しての自分の考えを書いていこうと思います。

あまり真剣に考えたことはなかったからこそ、いま言語化していこうと思います。

 

「分かり合う」「分かち合う」の違いを考える

自分が考える2つの違い

「分かり合う」

異なる者同士が1つの事象に対して互いの感情・意見を論理的に理解しあうこと。互いが互いを見ている。

 

「分かち合う」

異なる者同士が1つの事象に対して互いの感情・意見を受け入れること又は受け入れようと努力しあうこと。互いが同じ方向を見ている。

 

 

なぜ「分かち合う」ことが大切なのか?

多様化・情報過多・VUCAとなっている現代だからこそ、「分かち合う」ことが大切であると考えています。

現代は同じ国にいても、同じ世代でもバックグラウンドが多様化し、人によって考え方が異なります。意見・考えは、その人が今まで経験してきたこと・育ってきた環境が大きく影響しています。本当に分かり合うとしたら、その人のバックグラウンド等を含めた大きなブラックボックス自体を理解する必要があります。そんなことは不可能に近いです。まだ、仕事などの浅い関係であれば「分かり合う」という域に達することがないので、問題が生じることはありません。しかし、家族・恋愛などの深い関係になってくるほど、意見の食い違いが引き金となり問題に発展することになります。ここでの問題というのは、「分かり合う」ということを前提とした場合のコミュニケーション障害と言ってもいいかもしれません。

意見が食い違うということは、何かしらの事柄(その場で生じている問題)に対して2人以上で解決しようとする過程だと思います。意見が食い違いだすと、本来解決するべき問題を忘れて、お互いの意見を理解できないという問題にシフトしてしまいます。「分かり合う」ことを前提としたコミュニケーションであると、シフトした問題から抜け出せず、本来解決するべき問題に対しても答えが出せずにコミュニケーションを取ることを止めてしまうかもしれません。

「分かち合う」ことを前提とした場合は、相手の意見・考えに対して良し悪しを付けず受け止めて、自分と相手との妥協点を見つけるを主としているため、問題がシフトすることはないと思います。また、意見が多様化している現代だからこそ、相手の意見を否定せずに、とりあえず聞いてみてコミュニケーションを続けることが大切ではないのかと思います。

問題を解決するためにコミュニケーションを続けるためにも「分かち合う」ことを前提とした意思の疎通が大切であると考えています。

 

 

 散文とはなりましたが、「分かち合う」ことに対する僕の一意見です。