六甲ミーツ・アート 2019

〇前書き

9月末に六甲ミーツ・アートに1人で行ってきました。

六甲ミーツ・アートのURL ↓↓

https://www.rokkosan.com/art2019/

 アートは好きなので1人で美術館や舞台を見に行きます。

 六甲ミーツ・アートは俗に言うアートフェスと言われるもので、地域を題材として、アーティストが創作活動を行い現地に作品を展示する地域活性化活動の一つともいえます。


アートフェス自体は3年前の「瀬戸内国際芸術祭」に参加したことがありますが、兵庫県のアートフェスである「六甲ミーツ・あーと」には初参加でした。

初めて六甲山に登ったり、瀬戸内国際とは違う作品たちをミテ・キイテ感じたことを書いていこうと思います。

 

〇意味をなくした(奪われた)物は思い出を語る媒体になる?

六甲ケーブルを登ってバスで約5分の場所にある教会の道中に展示されている「OBI」と

六甲カンツリーハウスにある「狩野哲郎」の2作品をミタ感想。

私達は様々な物(人工物)を使います。朝起きて顔を洗うにも、洗面台を使ったり、タオルを使ったりします。1日でどれだけの物を使っているかなんて意識したことがありません。

その中でも好んで長い期間使用している物であったり、特に意識していないけど家の中にずっとある物があると思います。

それは、物としての機能よりも個人の愛着が多くを占めているような気がします。ある意味、「役に立つ物」から「意味のある物」に変化した物のだと考えています。

当初は、役に立つ物として購入した物が経年劣化により本来発揮するべき能力が低下(MAXを10とすると6ぐらいまで落ちる)してきます。本来であれば、能力がある一定レベル以下になると捨てられてしまいますが、その差分を個人の愛着が埋めるために捨てるレベルに達することなく、個人の手もとに残るのだと思います。その人しか分からない意味が、その物に宿っているのかもしれません。

どの物に愛着湧くのか湧かないのかはわかりません。家電とかは愛着が湧きづらい?

意味があるからこそ、その物を見た人達は何かを思い出し、語り会うことができるのではないでしょうか?

原爆ドームとかが典型的な物で、本来の作られた際の能力を全く発揮してはいませんが、今は過去の日本の辛い思い出を語る媒体として機能しています。

自分達が何気なく使っている物にはどんな感情が宿っているのでしょうか?

 

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〇自分が好きな風景

作品ではないけど個人的に好きだった風景があります。「風の教会」と「六甲枝垂れ」です。

風の教会は安藤忠雄によって設計された教会で無機質なコンクリートによって作られており、入口から向かって右手側におおきな簡易的な十字架と左手にはおおきな窓があり、光が入っていました。教会といえば木造で真ん中におおきな十字架があるみたいな印象を持っていました。なにぶん、特定の宗教を信仰していないので教会に行った経験自体ありませんでした。

有給を使って月曜日に行ったこともあり風の教会にいるのは自分だけで、無機質な教会のなかで自分の足音しかしないような状態でした。神秘的な雰囲気ではありませんでしたが、無機質なコンクリートと静寂に包まれている感覚がとても印象に残っています。電波とかが遮断された現代のリアル。無感情のなかに優しさを感じているような気がしました。

六甲枝垂れの中の窓のない枠から見た景色がとても印象的でした。枠の向こうに海が広がっているわけではなく、単なる山が広がっているだけですが、限られた枠からみた景色だからなのか、ノイズの入っていない純度100%の景色のような気がしました。その建物が木造であったので、視界の端のほうは気が見えて、少し中心にはコンクリートの枠があって、そのまた中心に山が広がっている景色。六甲山の中から全体を俯瞰しているような気がしました。

 

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〇まとめ

僕は物心ついた時から、海が近くにあって海を毎日見るような生活を送っていました。なので、山とは縁が少なかったのですが、今回の六甲ミーツ・アートに参加して山の中でいるということを五感を通じて感じました。アートをミテ・キイテするだけでなく、現地の雰囲気を体験できてよかったと思います。